秋の熊野灘−鯨を捕るのは大変だ

太地港から南側の燈明崎への坂道を上がると、太地湾へ押し寄せる熊野灘の荒波が見渡せる。向こうは勝浦から那智の山並みが秋らしくなってきた雲に包まれている。
太地と言えば鯨、我々は勇壮な伝統漁法とか日本の食文化とかで、この地については頼もしく誇らしい印象を持っている。町役場で職員さんと話していても、この人の何代か前の先祖は銛を持って鯨を追っかけていたのではないかと想像すると、こちらが少し背が縮んでしまう。
とは言え、港を臨む「漂流者紀念碑」を読むと、捕鯨は実際大変なことであり、悲劇的大遭難で300年来の古式捕鯨は一旦は壊滅、そこから近代捕鯨が立ち直ったことがわかる。「背美流れ」と称される未曾有の損害を受けて再起したことも尊敬されるべきである。ぜひ鯨の博物館にも足を運んでいただきたいが、太地町教育委員会の表示板によれば、その大遭難とは以下の通りであった。
明治11年(1878)12月24日、太地鯨方総勢184名は19隻に分乗して早朝より出港していた。沖合で待機していると夕刻近く「山見」から「子持ちの背美鯨発見」の合図を受けた。海上は荒れ模様で風雨も強かったが急いで陣形を整え「山檀那」の指示を待った。この年の捕獲は極めて少なく村民は生活に困窮していた。一方、子持ちの背美鯨は母性愛からも凶暴で近づくと危険とされており、山見での二人の山檀那の意見は対立したが、ついに決行と決まった。
沖合で待機していた鯨衆からは決行の指示に対して歓声があがったという。決死の追い込みが始まったが、母鯨は暴れだし、頭に網を掛けたまま沖遠くへ逃げようとする。船団も追尾するのだが、暗黒の中風雨はさらに強まり夜を徹した鯨との死闘の末、翌朝10時頃漸く仕留めたのであった。直ちに持双船に結わえ付けて帰港にかかるのだが、天候益々悪く高波にもてあそばれる中、全員が疲労のため鯨の曳航どころか自分たちも遭難してしまう状況に陥り、鯨を引いていた網を男達は泣きながら切断した。
しかし時既に遅く、船団は漂流状態、二日目の夜は西の暴風雨となり、船を相互に繋いでいたが衝突して沈没しそうなため繋ぎ網を解いた。ちりぢりになった個船を大波が洗い転覆沈没が続出、幸運にも漁船に救出された者、伊豆七島まで漂着した者もいたが、110余名の犠牲者を出す結末となったという。
その後、どう危機を克服して近代捕鯨に転換していったのかは、いずれ調べてみたいものだ。沖合で汐を噴く大型動物を手漕ぎ船で追いかけて捕ろうという、農民や山仕事をする者とは次元の違う発想と精神力を持っている人達である。さぞや不撓不屈の意思をもって再建を果たされたのであろうと、紀念碑に祈り、自分もがんばらねばと励まされた気分であった。

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