1.住吉にて

住吉大社の南東側の鳥居脇に「車返しの桜」と標識が建てられている。南北朝時代、建武2(1335)年春、後醍醐天皇行幸のおり車に乗って一旦通り過ぎられたが、車を引き返させて桜を愛でられたという故事による。当然その桜の木も代替わりを重ね、(財)住吉名勝保存会が移植、保存に努められているようだ。ここから南へ200mほど歩き、当時は湿地帯であったろう箇所を越え、東西に通る長居公園通りの南側へ渡ると、住吉行宮正印殿趾に到る。当時宮司の津守氏の居館の一部に御殿を建てて南朝が行宮を置いたのは、この行幸から20年ばかり後の事、後村上天皇のこととなる。ここは南北朝時代、当初より宮方とは深い関係であった。

この春は、後醍醐天皇の四天王寺宸翰本縁起を大阪市立博物館で見ることができた。肉厚のまとまった、明らかに頭脳明晰で全能感を持っていたはずだと筆跡を見た私は思った。やや自信過剰でついぞ武家を広く味方に引き入れようという発想は取られなかった。聖徳太子が書かれたとされる四天王寺縁起、とは言え平安時代に僧が僭作したのが今では通説の、しかし文句なしに国宝の書を見て感動し、天皇自ら写されたという御手印縁起。朱で手印二顆を押されたのがこれもまさに国宝。しかしこの時は手形の部分は巻いていて見せてくれていなかった。絵葉書で売られていたが。これに、建武2(1335)年5月8日の日付が書かれているのだ。縁起の長さからして、最低丸1日は四天王寺で写本されたのは確実だろう。ものすごく集中力を要することだ。
それで、近くの住吉大社にも来られて桜を愛でたのは3月頃でないとおかしいから、建武2年の3月〜5月は摂津に遊ばれていたのだろうか。しかしその後の歴史展開を知っている後世の者には、何とのんきなと思ってしまう時期ではある。6月には西園寺公宗らの謀反、中先代の乱もすぐ勃発、7月には北条時行が鎌倉を奪い、足利尊氏は出撃して行き、現地で建武政府から離反、以降は大混乱の末、王朝の分裂に到る。だからこの春は最後の安息の日々だったはずだ。倒幕、新政が実現したら行ってみたいと前から思われていたのであろうか。もっとも後醍醐天皇は即位したのが文保2(1318)年、親政が元享元(1321)年からのことで1330年頃までの水面下での倒幕工作活動の時期に立ち寄られていたのかもしれないが。概説書を読む限りでは、建武2年の話としか思われない。3月11日には八幡の岩清水八幡宮にも行幸されているから、南朝側の支持拠点を廻っていたことになる。
 

正印殿の趾までやってきた。ここが行在所になるのはそれから17年の後、まず後村上天皇が正平7(1352)年2月28日、賀名生から移り、津守国夏の館の一部であったこの地を御座所にされ閏2月15日まで留まられた。これは正平一統により京の北朝接収のための上京途上であり、この後八幡へ本営を進めた。2月に先に京へ突入した楠木正儀、千種顕経らが、北朝側の三上皇の身柄を確保、八幡から河内東条へ閏2月には移している。とは言え3月には足利義詮に京を奪還され、八幡で滞陣、攻防するも5月11日には陥落、遠く賀名生まで落ち延びていくことになる。帰りは住吉は通らなかった。
 次は正平15(1360)年9月、仁木義長の叛乱で幕府側が混乱状態に陥り、紀伊まで攻め込んでいたのが一転南朝側の攻勢となり、観心寺から移って来られた。仁木は翌正平16(1361)年2月南朝に帰順、執事の細川清氏も幕府に叛し(9月)、南朝側となった細川と足利直冬党の石塔らと共に南朝軍は一次的に京へ入り、足利義詮らは後光厳天皇とともに近江へ逃れ(12.8)、20日間ばかりであるが最後の京占領に到る。今度も京を確保できなかった南朝はもはや力を回復できず、天皇は住吉行宮に戻り、長期に留まることになるが、恐らくは焦燥の中で、正平23(1368)年3月11日、ここで崩御された。
 住吉は大阪市内で南朝が比較的力のある時期に京回復をめざす拠点として使われた。吉野という山間に依拠するイメージを我々は持つが、住吉ならば、京阪対決というややローカルな規模の連想に落ち着く。しかし14世紀の60年代に摂津を幕府が抑え切れていないというのは、今さら幕府の弱体さ、守護クラス大名同士の対立の激しさを痛感する。

 跡を継いだ長慶天皇は、翌正平24(1369)年1月、賀名生へ移動、暫くして天野山へ移る。その1月には楠木正儀が北朝側へ移ったという。和平派だった正儀は強硬派の長慶天皇について行けなかったというが、明かな事ではない。しかしなぜ南朝側の年号はさらに翌年1370年に建徳と号するまで変えられなかったのか。長慶天皇の即位が確認されたのは大正に入ってからという。康永2(1343)年生まれとすれば、即位は25歳の時で、血気盛んであられたのかもしれない。南朝が弱体化するにつれ、情報も乏しくなって詳細不明になってしまうようだ。大和五條の栄山寺にも1379年から約3年程度滞在されたともある。住吉を去って以降の南朝は復元力を失い、実質的には降伏である合一に至る。

2.阿倍野界隈

住吉大社辺りというのは大阪市の南端付近、もう少しで大和川、その南は堺、和泉国である。川の流れを付け替えたとか習ったことがあり、南北朝期にどう大和川が流れていたかは知らないが、いずれにせよ摂津の南端付近。ここから北東へ直線距離で約1qで帝塚山の高級住宅街、その北側の大社から約2q付近が「北畠」と地名も残るエリアになる。南北に延びるあべの筋沿いに北畠顕家の墓がある公園があったり、祀っている阿倍野神社があったりで、その角度で見ればもう古戦場なんだが。

今の日本で何某かの史跡がなければなおさら緑は乏しかっただろう。何の特徴もないかに見える北畠公園だが、江戸時代享保年間に並川誠所という学者の推定地を根拠に墓を祀った。太平記もそのうち読んでみたいが長いらしいし脚色も多いそうだが、最大6万騎いた軍勢が最後は20数騎となって壊滅、これが延元3(1338)年5月22日、21歳の若さで戦死されたというがその1週間前の5月15日の諫奏文が歴史に残った。死ぬ気でないと書けないことを書いて最後の戦いにでたという貴族軍人の美学だ。 

3.石津の戦い

最近のサイトは充実著しく、検索すると石津の供養墓の方が実際の戦死地のような気がして廻ってみる。


たしかな戦死地などわかろうはずもないが、こっちの解説では戦死は5月22日の朝、相手は高師直の1万8千、従って部下108人と共に戦死した南部師行の子孫が碑を建立している。住吉大社からは南西へ直線距離で約7.2q、石津川の南側、紀州街道の太陽橋南詰あたりだ。阪堺線石津駅から南西約150mで生活道路というか、まさに旧街道だ。
その碑文がひび割れ欠けてきており石碑なんかも永遠ではないなと感じていたが、最後の経過は押さえておきたい。当然碑は南朝正統で書いているので奈良で高軍に敗れたとは書いていない。河内に逃れた北畠軍はなおも北上を諦めず、3月16日阿倍野で高軍と対戦、惜しくも敗れ?、和泉国観音寺城に入る。これは石津から見れば南へ直線距離で約8.9q、和泉府中駅から南東方約1.7qの低い丘だが、そのうち行けるだろう。府中というくらいだから和泉の中心地、今でも北の信太山には陸上自衛隊が駐屯する。この府中の制圧地だったはずだ。5月16日に高軍が堺浦に出陣したので、22日から攻撃、激戦数刻の末、武石高廣、名和義高、村上義重らと戦死とある。甲州波木井梅平の城主南部師行は2千の兵を率いて従っていたが、顕家の戦死を知り僅かに残った一族108人と共に敵陣に突入、全滅したと書いてある。この戦闘時の北畠軍の兵力3千、高軍1万8千。以上が南部男爵の家伝なわけだ。
落馬して兵200名とともに全滅、あるいは石津川沿いの細川顕氏の陣は破ったが阿倍野付近で討死、にという記録もあった。最後に残った20騎は奮戦孤立、とか、援軍の到着が遅れたからとか、どうしてこうも事実の整理に日本人は無関心なのだろう。戦前は皇国史観、戦後は荘園での農民の自治とか生産力オンリー、どうにかならないのかと思うばかりだ。そう、自分の立場だけで考え、事実の整理確定は関係ない。当時の貴族も武士もどうもそうだったように見える。戦前の軍人、官僚も、戦後の教師もだ。
となれば勝手な想像をこちらも働かせ整理しておこう。河内に廻った北畠軍は地元豪族、楠木等との混成になる。遠路の奥州勢などごくわずかとなり、必死の顕家が高陣に突っ込み過ぎ、直属部隊以外は慎重となって付いていかず、中核部隊が包囲殲滅されたのだろう。

4.阿倍野神社

大阪市内に戻ると、阿倍野の戦いでの本陣あるいは戦場に阿倍野神社が建てられている。住吉大社から北へ直線距離約1.9qしか離れていない阿倍野神社は、北畠親房、顕家父子を祀っているが、時代背景から明治になってからの創立で、高級住宅と下町を隔てる丘の上といった風情であり、南海電鉄の岸里玉出駅から歩いて行くのと、東側から行くのでは受ける印象がまったく違う。境内にはびっしりと北畠親房、顕家の生涯の事績や年表、詠んだ和歌が掲示されている。

 佐藤進一先生の本では1月28日の青野ヶ原(後の関ヶ原)の戦いで戦闘自体は勝っていたのに、第二陣を突破しようとせず、伊勢の方へ廻ったところで運は尽きたとされている。貴族としてのプライドから、北陸の新田義貞軍との合流をきらったか、意外に損害が大きかったかだとされる。難太平記では京からの援軍が黒地川に着いたうえ、東海道を追尾してきた幕府側の今川軍もおり挟撃をおそれたとなっている。そして伊勢・雲津川で2月14日、櫛田川で16日、追撃軍を破り、奈良へ21日回り込んだものの、京から南下してきた、高師直、桃井直常に28日般若坂に敗れる。この時、高軍は分捕切捨の法を初めて指令、首を取ったら近くの友軍に確認してもらい首は捨ててそのまま戦闘を続けるという、首実検を省略する合理的戦闘法を採用した。高師直は悪役だが時代の革新者である。初めてやるのはいつの時代でもなかなかできないことだ。義良親王は吉野へ、弟顕信らを分遣して八幡へ、顕家本隊は河内へ廻って行ったが、ここで兵力を分散するものだろうか。後醍醐天皇なり北畠親房の指令だとは思うが、それにしても。3月8日に河内古市河原、八幡、天王寺で戦闘がありやや北畠軍が盛り返したかに見えたが(天王寺では細川勢を破っている)、15日渡辺、16日阿倍野と河内、摂津の各地で戦闘があり、高軍に敗れた北畠軍は観音寺城(和泉市観音寺町)へ後退する。そして追い詰められたということか。してみると諫奏文は、高が堺に着きそうな前日、必敗を覚悟して観音寺城で書かれたということか。

 八幡は3月13日に北畠顕信、もしくは同族の春日顕国らが確保し、顕家の死後も7月11日まで支えていた。顕信は北陸からの脇屋義助の援軍を待つ。援軍が来そうだとの報告を得た高師直・師泰らは7月5日に八幡を攻撃、冷泉持家・家房を戦死させ、11日陥落。顕信・春日顕国はその後、河内を経由して伊勢に舞い戻る。高師直はこの時忍者を忍び込ませて石清水八幡宮を焼き討ちしている。大規模な戦闘で忍者が活用された記録を読んだのはこれが初めてだった。             
  


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