龍門山上部から見降ろした寺山です。快晴日なので、紀淡海峡まで遠望できました。

 寺山(標高483m)は、龍門山系として、龍門山の西の先鋒といった位置ですが、今は頂上周辺はゴルフ場になってしまっていますが、鎌倉時代末から南北朝期は勝神山城(かすかみ)として激戦の地となった所です。龍門山の山頂へは、ハングライダーを引っ張り上げるためか、ものすごい急なセメント道が8合目あたりまで、まっすぐ高度を稼いで登っていきます。勝神峠(かすかみ)に車を置いて、龍門山頂までさっさと往復してきました。快晴で、ハングライダー14機ほどが発進前の整備中でしたが、ちょっと西風が強いようで、見合わせているのかもしれない。

頂上の草原から紀の川沿いを遠望できてしまうということは、軍事的にも重要だった?、という考えが主流の時代もあったということでしょう。おかげで、南北朝時代の概説書を読むことになった。子供の頃から置いてある「日本の歴史 第9巻」佐藤進一著を取り出した。

1360年(延文5/正平15)4月から5月にかけて龍門山の戦いで、紀の川沿いから南朝勢力を追い払い、有田地方まで攻め込んだ畠山国清と弟義深ら3万の軍勢が、6月になぜ反転、関東まで去って行ったのかまで、きちんと書いた案内など山の中には立てられているはずもない。

畠山国清は、関東執事であり、足利成氏を補佐し、関東一円の武士を幕府に従わせる立場であったが、将軍義詮が、近畿南部の南朝勢力を攻撃するために、関東に派兵を求めたのに対し、関東武士の間では不満が強かったようだ。長期滞陣への不平が幕府勢に広がっていたことも背景にあり、翌年の関東での畠山失脚の下拵えができていたらしいのだ。

同時並行的に、1360年4月には河内で金剛寺を焼き、5月には赤坂城も陥落。いよいよ南朝の本拠、観心寺も危ういという、紀伊、河内へ幕府が攻勢を強めていた、まさにその時、京でとんでもない政変が起こった。

仁木義長(伊勢守護)が他の守護が結束して自分を追放しようとしていると知り、将軍義詮を捕らえ自立しようとしたが失敗したという。これを知った幕府軍は続々と帰京もしくはそれぞれの本国へ引き上げたというのだ。仁木は伊勢長野城に逃げ込み、翌1361年2月には南朝に助けを求めて投降する。畠山国清、義深は関東へ引き揚げたわけだが、そこで待っていたのは不満を強めた武士達の執事罷免要求で、公方はそれを飲んで畠山は失脚するという運命だった。

このため、情勢は一変して、南朝方は逆に攻勢に転じ、9月に後村上天皇は、観心寺から摂津、住吉神社まで進出、移られる。12月には、わずか二十日間とは言え京を占領することになる。

このように各地の戦局は中央の情勢と併せて見ないと理解できないというわけだ。

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