大旗山は揚柳山ともいい、和歌山市の南東端付近、市内中心部から南東方約11q(直線距離)辺りに位置する。標高244.7mで和歌山市東部に広がる近郊農村を見下ろしている。同じような丘やその間に点在する池が広がる一帯で、風爽やかな頃ならのどかそのものである。



北東側を東西に伸びる谷を孟子(もうこ)と言って、不動尊が祭られている。最近ではビオトープ孟子として自然観察地として有名になった。NPO法人自然回復を試みる会が池を掘って、観察地とした他、周囲の丘のハイキングコースの整備にも取り組まれているようで、道標、表示板は誠にありがたい。一帯は、僧兵の道、城跡トレッキングコースとして大池公園駅から整備されている。

とは言え、歴史を見ると、南北朝の末期、紀北の南朝勢力がこの地で滅亡したという極めて凄惨な現場であった。1385年(北朝の至徳2・南朝の元中2)、10月3日、楠正久らの守る大旗山の篠ケ城は陥落、城兵5百数十名は全員討ち死にした。さてこれを、調べると不可解なことが多く、道脇の表示、文献の既述が正しいとは限らず、歴史的事実の方もすべてはっきりしているわけでもないことがわかった。

幸いにも、近くに住み、何度でも行ける私が少しははっきりさせたいと思ったのだ。そう体力のあるうちに。


大旗山の伝説は、もう少し前の時代から始まる。平安時代、平良風(吉風)が住み着き、住民が苦しめられたのを、南朝方が住民の協力を得て討伐したという伝説がある。(宝光寺縁起)−平安時代と南北朝では最低150年ほど時間間隔があいてるが。

平安時代中頃大蜘蛛がいて、源頼光の四天王、渡辺綱が退治したとの、伝説もある。全身鋼鉄のように硬く、何でも食べてしまう人間より大きな妖怪グモ。網にかかる鳥や獣が少なくなると、人を襲って食うようになった?(NPO表示板−東條清著「和歌山のクモ」を引用)

  この山道を歩くとわかるが、やたらとクモが多い。伝説に関係あるのかもしれない。伝説というのはごっちゃになって時代は飛んで捏造も入り、何とも実際はわからなくなる。勝手な私の想像では、平の何とかと名乗る盗賊が占拠していたのを、国司が支援要請して都から渡辺綱らが援軍として派遣され討伐したのが平安の中頃の話じゃないのだろうか。南朝の官軍が云々は、紀北の南朝勢力敗滅の地で、住民の同情、あるいは遺体を葬った宝光寺による脚色かもしれない。


  楠正久とは何者だったのか。楠木氏の系図にこの名は出てこない。ここから私の関心は、急に範囲を広げ始めた。

山頂にある、NPO法人の表示板では、1360(延文5)、畠山義深が築城したとある。畠山義深(よしとう、よしずみと書いたサイトもある)は畠山氏6代当主。畠山家国の子である。各国守護を歴任したが、この年、龍門山の合戦で、南朝方塩谷伊勢守、貴志氏らを破り、伊勢守は戦死している。ということは、時期的に北朝方の砦として築かれたのだ。

大野城を凌ぐと言われ、南北の出城を持ち、東西約1qの城域を誇ったという城であったらしいが、何で1385年には南朝方が籠城していたのか。

まず畠山義深は 康暦元年/天授5年10月12日(1379年11月21日)に死んでいる。1385年に楠をこの城に囲んだのは彼ではない。したがって、山頂の表示板の内容はおかしい。

1378(永和4)紀伊国守護に任ぜられたのは山名義理(よしただ、よしまさと書いたものもある)である。山名義理は時氏の次男である。この年、紀伊で楠木一族の橋本正督が反乱を起こし、守護細川業秀が敗走したため、幕府が紀伊守護に義理、和泉守護に氏清(時氏の4男)を任命したのだ。義理は弟の氏清と出兵、1380(康暦2)これを討ち果たした。明徳の乱(1391)で山名義理は足利義満に対立して没落、守護が大内義弘となるまで、山名義理は紀州にとどまっている。つまり1385年の攻城側の大将は彼である。1万の軍勢で700名程度の城を囲んだそうだ。

至徳年中(1384−86)に府中(現在の和歌山市府中、JR紀伊駅近く)にあった紀伊国守護所を大野郷へ移したとある。つまり、海南市大野中、もしくは藤白山の上の大野城が北朝側拠点であった可能性が高い。

1378(永和4/天授4)から争奪戦となっていた土丸城(大阪府泉南郡熊取町)を、山名義理が1379(康暦元)に攻略、橋本正高(正督)、楠正勝を破り敗走させている。1380年7月に和泉守護の山名氏清が橋本を討ち取り、和泉での山名勢力の増大は、北朝にこの時期寝返っていた楠正儀(まさのり)を、再び南朝に再帰順させる原因ともなった。さらに藤白城、湯浅城も攻略に成功している。もっとも、1382(永徳2/弘和2)に楠木正勝が土丸城で山名義理と戦い、敗北して脱出との記録もあるから、攻防が続いていたようだが。

そこで出てくるのが楠正儀である。楠正成の3子で、兄正行が四条畷の戦いで敗死後、一族を率い、一時は南朝優位の時期も創り出したが、講和派であり、なぜか1369年(正平24/応安2)北朝に降り、1371年には南朝の天野行宮を攻めたが、1382年(永徳2)再び南朝に帰順した。

1383年(永徳3/弘和3)12月頃、正儀は参議に列せられた。

1385年(至徳2/元中2)になると、この年から6年間、足利義満は全国を回り、各地大名に将軍の権威を見せつけるとともに、誰が味方で誰が敵かを見極めようとしていた。北朝優位が固まりつつあり、もはや挽回は難しい所へ来ていたのだ。

そして1385年8月、楠正儀が紀伊で挙兵とある。ここで負けて、敗残部隊の一部が包囲されたのか、正儀挙兵というのは正儀の子であったか庶子であったか同族だったかの、楠正久の誤りだったのか。またはすでに篠ケ城に封じられていた南朝方なのか。すでに山名が紀伊では優勢であった状況で、そのタイミングで挙兵、敗北、包囲、全滅というのがわからない。

正儀自体、何年に死んだかも確かではない。正勝は正儀の長男で、1390年(元中7)には右馬守として楠氏棟梁として登場してくる。その間のことでしょう。

相当調べていかないと納得しない。また書いてみたい。

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