| お菊様伝説の研究 | |
| 泉南から紀北にかけてを舞台にした悲惨な戦国末期の女性の伝説に関係する土地を廻ってきた。各地の立て札とサイトからの引用部分が多いが、阿菊顕彰会、泉南ライオンズクラブさんには敬意を表したい。国土交通省も地元対策なのか、随分詳しく各地の伝承をまとめている。 | |
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そもそもお菊様は、豊臣秀吉の甥である秀次の側室、小督の局の子で、彼女は淡輪徹齋隆重の娘である。秀吉は淀君との間に秀頼が生まれてから秀次とは不和になり、要は自分の子を跡取りにすべく秀次は謀反の罪で切腹、遺児4男1女と正側室併せて39名を処刑した。(1595文禄4)小督(おごう)局も殺されたが、生後1ヶ月のお菊様は助命され、その祖父の弟の子で波有手(ぼうで、現在の阪南市内で南海本線鳥取ノ荘駅の北方約500m付近の海岸に近い集落)の豪族、後藤興義の養女となり、紀州山口(現在の和歌山市山口)の山口兵内に嫁いだ。 山口は字のごとく雄の山峠を越えて紀州に入ってすぐの街であり、今も歩けば旧家が並び山口姓のお屋敷も目立つ。昔から経済力があったようだ。 ここの代官の跡取り、たぶん当初は豊臣秀次麾下だったと思われる。 |
| ↑ 和歌山市山口地区 | |
| 嫁いでその数日後に兵内は大阪夏の陣で大阪城へ入ってしまうのである。さてお菊様は夫のために密書を携えて大阪城を訪ねた。紀州若山は関ヶ原後は浅野領である。浅野長晟が徳川家康の命を受け南方より大阪を目指そうとする一方、大野治長は一揆勢と呼応し南進を図る。若御料が密書を持って大阪を目指すとなれば内容は当然、反浅野=徳川への一揆勢と大阪方の連携であろう。豊臣秀吉の紀州攻めが天正13(1585)、ここで根来衆や雑賀衆、太田党らが没落し、豊臣秀長等豊臣一族が知行することとなります。おそらくここで山口を治めたのでしょうが、関ヶ原の戦い(1600年)で、浅野幸長が紀州に入ります。その後15年間どうしていたのでしょう。面従腹背だったのでしょうか。 |
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お菊は雄の山峠でなく5q東の風吹峠へ迂回、途中堀河谷を東に山中に分け入り潜行します。新家方面へ坂を登り尾根沿い標高330m強の納経山で髪を切り男装し、松の根元に埋めたそうで、「お菊松」「お菊山」としてハイキングコースになっています。行って見ましたが、楽に登れるし眺めはいいしで石碑も建てられています。関西空港がよく見えます。しかしお菊様の心中、さぞ悲壮であったことでしょう。 |
| ←お菊松の石碑(脇に新しい松が植えられている) | |
| 大阪城へ入るのには成功したお菊様でしたが、夫との対面も束の間で、帰路山口一族の鎮圧斬首を知り養父母の後藤家に身を隠します。さらに4月29日樫井川の戦いで大阪方は敗走、大阪城も5月7日落城で夫も討ち死にを知ることとなります。お菊様もやがて捕らわれてしまいました。嫁いで間もないことから浅野方も助命しようとしましたが、彼女はこれを拒み、南穂村の紀の川河原で斬首されてしまいました。 今の和歌山市永穂(なんご)であろう、とすれば山口から南西方へ約3qの近場であり、多分に見せしめの色彩が強い。 |
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| ↑川の流れは時代とともに変わるからはっきりしないが永穂付近の紀の川土手で当時を偲ぶ。はるかに龍門山 が望見できる。 |
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後藤家は養女の菩提を弔うため法福寺にお菊の木像を納めました。当地には50節に及ぶ手まり歌も伝わっているそうです。「お菊寺」とも呼ばれるお寺ですが、境内には顕彰会の石碑もあります。後藤姓の名前が多く彫られており、ご子孫は続いておられるのだなとか旧家が多いなと感心したり、歴史は何らかの形で残るから悪いことや恥ずかしいことはやめようと思ったのでした。鳥取ノ荘の駅から北東方に近いが通りは細くわかりにくい。 紀州から泉南にかけての豪族が大勢力の盛衰の中で翻弄されたことを強く感じました。そもそも淀君と秀頼のために小督も殺されたのにまだ豊臣について行かなければならなかったのでしょうか。徳川方も豊臣との何らかの係累はすべて絶つか没落させる気だったのは関ヶ原戦後の処理で明白ですから、山口もおとなしくしておれなかったのでしょう。厳しい武家の習いというか権力闘争の実像を見ることができます。 |
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2006/7/17追記 南海電鉄「淡輪」駅の北西約300m(直線)付近、「淡輪邸跡」を訪れる。掲示には、「城の薮」と呼ばれたという。小督(ここ)の局の生家となる。幼名「おこよ」。樫井川の合戦で戦死したのは、徹齋の次男で六郎兵衛重政。 祖先は源義経の家来で勇名を馳せた佐藤忠信の子、小次郎重治、元久年間(1204頃)この地に地頭として定着とされる。佐藤継信・忠信兄弟は共に義経を守って戦死、その父基治は代々奥州藤原氏のもと信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族であるが、頼朝の奥州攻めで降伏したが許されている。 全国にこのクラスの地頭って多かったのだろうなぁ、それにしてもここは華々しいが悲惨な歴史を刻んだ家系であったようだ。 |
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