大旗山の陥落を調べているうちに、この時期の紀伊とその周辺の状況を調べてみたい気になった。

  専門外で、活字とサイトに頼るが、まとめられたものは見あたらないから、参考になるかも知れない。埋もれ忘れられ、事実と異なる伝説の材料にされるのが人間の運命であるとは信じたくはない。日本人は事実の記録への執着が中国人に負けていると思うがいかがなものだろう。

  歴史学者でもないので、どんどんわかったことは書き足していくし、書き換えていく。あくまで参考に。ただし、郷土の歴史への関心を多くの人が持ってくれることを切に望むものである。


  楠木正儀(まさのり)が1385年(至徳2/元中2)8月に紀伊三谷城に挙兵して、山名義理と戦って敗れます。

  この三谷城は、紀の川市東三谷の春日神社趾で、春日山城して教育委員会が表示している南向きの岡です。

 根来寺の出城のような位置であり、府中との位置もあってか根来は北朝についていたため、25年前の1360年(延文元)には南朝側の攻撃で陥落している。土仏峠の南側で和泉の山地と連絡性のよい位置であり、河内、和泉の南朝方と連絡性が良いので、負けてからその方面へ逃げたとしか考えられません。

  

そして、10月3日にそこから南西方へ約13q離れた大旗山(篠ケ城)で、楠木正久ら500余名が討ち死にしています。 南朝方(反幕府、反守護)の豪族が結集して挙兵して、主力が潰走後、取り残されたという筋書きを想像するほかありません。



  さて紀伊の南北朝合戦で、太平記に出てくるのはもう少し前に遡ったところからで、流れを見ていかねばなりません。

1360年には大きな両勢力の衝突が発生しています。

←紀の川の右岸(北方)からの遠望

貴志谷を東へ越えて紀の川沿いに東西に伸びる山系

紀の川左岸で川から直線で1q程度、標高285mの丘である「最初が峰」に南朝勢力が集結します。中心となるのは四条中納言隆俊、その属将、塩屋伊勢守です。

山本、湯浅、田辺別当らも参陣しました。






 1359(延文4/正平14)関東執事の畠山国清を幕府は紀伊の南朝方鎮圧に起用、弟の義深と上洛し、翌1360年4月(延文5/正平15)紀伊に侵攻します。守護畠山国清は弟の義深を将として3万の兵力を出撃させ、まず最初が峰からは西に直線距離で10q離れた和歌山市和佐の和佐山城、現城ケ峰(標高255.4m)に陣取り、にらみ合いに入ります。3日程度体制固めをしようと陣地構築にかかりました。 

ここで南朝方塩屋伊勢守が畠山軍を誘い出すため、最初が峰から東方の庄前峠を渡り直線約4q離れた龍門山(標高755.9m)、勝神山城へ移動します。これを追う形で攻め込んだ畠山勢を尾根上から矢を浴びせる形で、最初が峰から、寺山、龍門山にかけて激戦となり、一旦は南朝方が大勝しました。しかし塩屋伊勢守は戦死します。

すぐさま足利義詮は、畠山一族、今川了俊、細川家氏、土岐直氏ら7000を増援、体制を立て直します。貴志民部左衛門、大夫、湯河庄司らの投降が転機となります。畠山勢が数を頼みに南朝側を押しだし、四条中納言らは有田の阿瀬川城(阿瀬川孫六、現有田川町清水地区)を頼って敗走する結果となりました。最初が峰の南東方の谷は一万谷と呼ばれ、この時の戦いの死者が1万人も出たことに因むといいます。ここの史実も検証要ですが、今も麓の高野の人達が霊を弔っているそうです。南朝方は、この間約1ケ月は持ちこたえたのですが、兵力差がありすぎました。

畠山勢は有田郡に侵攻、有田、湯浅、石垣(現有田川町金屋)など、湯浅党の拠点を制圧しました。湯河氏らと連携に成功した畠山義深は、牟婁郡富田にまで兵を進めたのです。小山氏の一族久木八郎は、この機会に守護側につきました。
 

 ところがここで京で勃発した仁木義長の叛乱事件で、幕府遠征軍は散り散りになって無断で関東へ帰還してしまいます。九仞の功を一簣に欠いた畠山国清は大いに面目を失い、翌1361年(康安元/正平16)、畠山国清は関東で失脚、領国の伊豆で11月挙兵しますが、翌1362年9月(貞治元/正平17)敗れ逃亡します。大和で窮死だそうです。義深も兄とともに降伏しますが、1366(貞治5)幕府に許され、越前守護となり、斯波高経を破ります。以降能登、越中、河内、和泉、紀伊、伊豆、越前の守を歴任しましたが、1379(康暦元/天授5)死去しています。

畠山義深は1360年のこの年、大旗山に篠が城を築城しています。たぶん最初が峰に対峙して3万の兵力が西方から展開したのであれば、その南翼の陣地としてであろうと想像されます。高野への街道沿いを抑える位置でもありました。国清に従い関東に急行したであろう義深が放置したのか、紀伊の抑えに兵力を配置したのかは不明ですが、前者の公算大と考えます。

そんなありさまですから、南朝側は再び勢いを盛り返し、現紀の川市中三谷の春日山城を、恩地、牲川ら3700の兵力で攻撃させ、二引両の旗印を立てて立てこもる城主西蔵院院主岩田八郎ら300余人全員を討ち死にさせています。「東三谷八郎が峰」として碑が建てられていますが、これが7月のことです。

篠が城の主もこれ以降南朝側だったかもしれません。こうして守護勢力は紀伊に基盤を作り損ね、南朝側の復活を招いたのでした。紀伊国内では南朝勢力が強かったのです。

 

 

  

  

←最初が峰から西方を望んだ地勢把握









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