1.発生
平安時代、文徳天皇(在位850〜858)の皇子に惟蕎(これたか)親王という方がいらっしゃった。
第1皇子(844−897)で皇位継承戦に敗れ、悲劇の皇子と書かれているが、どうだったかはわからない。終焉の地と伝えられる、江州小椋庄筒井(現在の滋賀県神崎郡永源寺町大字蛭谷)にある筒井八幡宮、並びに君ケ畑(同町大字君ケ畑)にある大皇大明神(惟蕎親王を祭神)を本拠地として、親王を氏神と仰ぐ、木地師達が組織化され、筒井八幡宮近くに、近江系木地師、轆轤師の総支配所として筒井公文書を設置した。
彼らは室町時代になる頃、畿内各地へその技術を伝えたとされる。
和歌山県海南市黒江は、和歌山市の南隣、和歌浦の南側に続く岬の南側で、当時は海部郷の一部だった。西向きの遠浅な湾に面し、平地は少ないが、東向きに高野へ至る街道もあり、海路水運の便によい。また木の国(紀の国)というだけに良質のヒノキ材に恵まれていたということで、木地師達が定着し、日用品としての渋地椀の生産が始まったとされる。(「紀州漆器のあゆみ」和歌山県漆器商工業協同組合編)
南北朝期に紀伊国は宮方も強かった。木地師のように耕作民以外の民、修験者らを南朝方は支持基盤に引き入れた。これも関係があるやもしれない。
太閤の根来寺侵攻の際、逃げ延びた寺内の職人が伝えたという説もあるが、どうも違うらしく、当然根来塗りの技法も吸収されたであろうが、柿渋に墨を混ぜて下地とした上に漆を塗った庶民向けの渋地椀が、黒江塗りの中心生産品であったようであり、根来寺廃滅以前から椀類が生産されていたと考えられる。
根来塗りは漆下地のうえに黒と朱の二層に漆塗装を施す厚塗手法のもので高級な宗教権力の膝下で磨かれた技法のもので、僧坊で用いられた質素な感じのものであるが、高級に作って使い込まれた風合いが、寺が衰えた後も全国で珍重されたというもので、系統が異なる。
また個人的な想像であるが、南北朝末期、至徳年間(1384−1386)に紀伊国守護所を府中から大野城に移している。これは、山名義理が南朝勢力の根拠地湯浅を押さえるために、紀伊国北端部の府中から守護所を移動させてきたのだが、城域は広く、黒江湾奥の先の平坦地及び南側の長峰山脈上に築城したものであり、多様な職種の者が以降周辺地域に移ってきた契機ではないかと考えられる。明徳の乱や応永の乱後、紀伊の政治的中心が黒江地区と極めて近接した地域に所在した時代が続いたことも、日用品需要を活発にしたのではないかと思われるのだが。
目次へ