前回、観心寺へ横道に入って以来、河内周辺の14世紀に興味の対象は流されていった。日本史を勉強して軍事政治史の流れを最も理解しにくかったのが南北朝時代だった。ローラーのように東西に軍勢が移動、攻防したが、戦国時代に今川、武田、上杉、と上洛をなかなか果たせず、織田が幸運をつかんだのに比べ、足利尊氏、直義、新田義貞、北畠顕家らは、後世より軽々と長い距離を移動しより大きな規模で戦えているように見える。もっとも源平の合戦での源義経にしてもそうだ。そんなに京や鎌倉は防衛しずらいものだったのかと思うばかりである。
1336年に楠木正成、名和長年、千種忠顕が戦死し吉野に逃れ、1338年には北畠顕家、新田義貞と戦死し、後醍醐天皇も1339年失意のうちに崩御して、幕府の天下が定まるかに見えてからなお50余年もの間延々分裂が続いた史実をどう見るのか。戦前のままの解説がある一方、農村の自治ばかりに興味を向けたような解説も図書館には多い。何やら街興しの感覚で南朝の忠臣を祭る感覚も見られる。武家の興亡など無意味とまでは言わないまでも、戦後は軽視されたことは疑いがない。そんな後世の政治的な利用のされ方は知るはずもなく、この時代の当事者はそれぞれの立場で担ぐ旗を求めて戦ったのであろうし、宮方の場合、北畠親房らが戦う信念を保つため南朝の正当性を思想化したが、後世それをどう利用されたかは別にして、事実関係は大切に扱うべきであろう。惣領制が均分相続の影響で緩み、出自、嫡流庶流の争いもからんで、天皇家から貴族、幕府、守護も同様に分裂し、地方での勢力争いを助長した時代だった。たしかに農村での国人、農民の実力の蓄積や非耕作民、修験者らが出現し、特に南朝側はこれを使ったというのは大きな展開である。貴族の没落を決定的にしたのもこの時代だし、なお強力な宗教勢力の存在、その政権への影響力は、やはり信仰や神罰仏罰死霊への恐れが人々を捉えていたことを示している。
天野山金剛寺にやって来たのは忙しい時期の気分転換のためだった。
金剛寺は南海電鉄高野線「河内長野」駅から南西方向に直線距離で約4.7q、岩湧山の麓で河内の南奥という位置で、和泉との境も近い。すぐ南方を大阪外環状線が東西に通っているので、岸和田和泉インターから約12q程度で回り込める。ここらでは、丘陵の尾根と谷は北向きであり、標高も200m程度といったところだ。
金堂東に天野殿があり、南朝六年間常御殿と石碑が添えられている。ここで政務戦略が練られたということだ。この六年間とは、1354(正平9)年10月から1359(正平14)年12月のことだと思う。南朝軍が第1回の京都争奪戦に敗退し最後まで踏みとどまった八幡から退却し、賀名生に緑営を下げたのが1352年7月であるが、この混乱の中で北朝側の光厳、光明、崇光三上皇を連れ去ることに成功している。住吉から河内の楠木氏根拠地東条、そして賀名生へと引き連れて行かれた上皇らはやがてここ天野で幽閉生活を送る。金堂北側に南朝行在所「摩尼院書院」があって、天野殿北側の奥殿に北朝側の行在所があった。
室町式庭園は美しいが三人も貴人を住まわすには狭い感じだった。虜だから仕方ないか。御殿の廊下には唐突に、かの天野酒の古い大壺が置かれていて、地酒のラベルにそのまま採り入れられている。もっとも南朝行宮ももっと狭そうで、建物がその当時のものかはわからないが、質素な生活を送られていたように見えた。
内部は問題なので、御殿脇の寺内の堀と通路沿いで1枚撮らせていただく。咲いていれば桜もきっときれいだろう。

もっとも北朝も1352年8月には後光厳天皇を即位させ、どちらも妥協する手がかりを失ってしまったのだが、足利直義の養子(尊氏の庶子)直冬が行き場を失って南朝に投降(1352.11)、1353(正平8)年には南朝と直冬党がそれぞれ京に進撃し、6月にはやはり短期間京を占領した。翌年も再度攻勢をかけ、後村上天皇がここ金剛寺に移られて後、12月には直冬、山名、桃井、斯波らが京にせまり尊氏は、後光厳天皇を奉じ近江へ下る。1355(正平10)年1月には桃井・斯波が北から、直冬・山名が西北方から入京するが、尊氏、義詮は3月には京を奪還し、直冬は八幡から退却し西国へ落ちて行った。というように、この時期ここは京攻撃の司令中枢であったわけだ。
光厳以下三上皇、廃太子直仁が金剛寺から帰京を許されたのは、1357年2月だったという。ということは1354(正平9)年から1357(正平12)年にかけては、ここで軟禁されていたということになる。
運命に弄ばれるとはよく言うが、何故か幽閉された寺に、光厳天皇の墓(分骨所)がある。南朝の軟禁が解かれてからは出家して禅宗に帰依、各地を巡られ歌道に優れられたとか。案外ここが気に入ってらっしゃったのかもしれない。
尊氏最晩年の宥和政策の時期が終わるのはその死1358.4によるが、新将軍義詮の攻勢から1359.4には河内の四条で交戦があり、北朝の圧迫が高まる中、1359.12月に後村上天皇は恐らく防衛上の理由で行宮を観心寺へ移されたのである。
案の定、翌年1360.4には金剛寺は畠山国清の軍勢に焼かれてしまった。
その後1368年3月、住吉で後村上天皇は崩御され、強硬派長慶天皇即位となり、和平派だった楠木正儀は北朝に行ってしまった。1373年8月楠木正儀は細川氏春、赤松光範とこの金剛寺を攻めている。長慶天皇を吉野へ退却させたのだが、これらの戦災でどの程度寺の建物が焼けたかは今回はよくわからなかった。
奥殿の室町式庭園も、桃山時代末期と寛永年間に修理改装されたとある。
のどか過ぎる境内の春、対照的な混乱の歴史、草行山水自然形の庭園が厳しかった歴史の傷を癒しているかのようだ。
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