観音寺城
 石津の戦い前後に資料に登場する、和泉府中の観音寺趾を訪ねる。最後の北畠顕家拠点である。

JR阪和線和泉府中駅を降りて東口からバスに乗った。この路線は丘陵地域を東西に横切り、いぶき野から泉北高速線和泉中央駅までを結ぶ南海バスのものである。和泉府中というからは、和泉の国の国府があった所で、13世紀には中心地だったのだが、東側にあった丘を東西に府道が切り通してしまったようなのだ。丘の上におそらく観音寺城はあったのだろう。頂上を切り開いた結果、府道がいくぶん低い高さで城の真下に通ることになった。頂上の地面真下付近にある「観音寺町」というバス停留所の脇に石碑が建てられている。開発で山容が一変し史跡の消えることを惜しんだ沿線住民有志が城址の真下付近に石碑を建てたと書かれている。

 延元3(1338)年3月16日に阿倍野で高師直に敗れた北畠軍はこの観音寺城に引きこもる。要は体制の立て直しである。5月に入って6日に幕府軍のいる堺浦を攻撃したり、8日に和泉坂本に観音寺城を築城したり(3月下旬からいたのではないのか。3月には府中に入っただけなのかもしれない)、9日に熊取の北朝勢(たぶん日根野氏)を攻撃したりした後、高軍が堺方面に進出する情勢となった5月15日、後醍醐天皇に宛てて長文の諫奏文を書き送り、決死の覚悟を定める。高軍は16日堺浦に出陣、これに対して北畠顕家決死の覚悟で5月22日この観音寺城を出陣、激闘の末討ち死にした。

 
  この碑背面には石津の戦いの経過をこう記されている。22日北畠軍は石津川畔に陣を張る細川顕氏勢を撃破し、阿倍野まで進出したが、高師直勢に敗れ討死したとする。顕家討ち死にの後、麾下の残兵は一旦、この観音寺城に集結し再挙を図ったが、追撃する高軍により陥落、南方の尾根づたいに逃走したと記されている。和泉市史には幕府側の日根野道悟がこの日、観音寺城、箕形城を攻略したと書かれていた。

西側から見ると、まったくゆったりと丘を府道が登っていく、何の変哲もない郊外の住宅地である。しかしなだらかな坂は明らかに酒盃を伏せたような低い丘の頂上を東西に縦断、切り通して府道を開設したことがよくわかった。

駅から2q弱のこと、帰りは歩いた。


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