これによれば、天正の乱(豊臣秀吉の紀州征服)で荒壊れたが、心浄上人が中興して、天保の頃には護摩堂、鐘楼等が残っていた。また山上には古い五輪10余基あったと記している。「この中に楠正行(ママ)の墓ありといへとも銘見えず」とあるが、楠正行は1348の四条畷の戦いで戦死しており、誤りであろう。

500余名が全員討ち死にとされるが、戦死した遺体を宝光寺に葬ったとされる。宝光寺は頂上から北方の鶴者峠へ少し降りたところから分岐して西へ向いて黒岩方向へ約5分降りた狭い谷の底である。杉林と竹藪が平坦な場所を覆い、倒壊した卒塔婆、五輪塔の一部がいくつか見えるだけで、墓石で読めるのは「法師一道」のみである。江戸時代の僧の墓石と推定される。

黒岩の住民男性に聞くと、曾祖父のころは廃寺になった後に建っていた農家があったという。つまりわずかに見られた瓦も寺のものではなく、農家のものと考えられる。黒岩側からは直接には北東に700m程度登る必要がある。

黒岩集落のやや西寄りの観音寺から尾根に上がれるそうで、その寺の掲示板には、宝光寺廃寺の際、1882(明治15)、手洗石、と鐘を移し銘を切り替えたとある。宝光寺は明治初年くらいまではあったわけだ。たぶん廃仏毀釈で廃寺となったのではないか。寺どおしは宗派的には関係ないというが、墓石等はどうなったのか。





←観音寺の手洗石 「揚柳山」とある。


←観音寺の鐘楼

たしかに梵鐘の銘は寺の名の所はやり直したようだ。

前田住職にお聞きすると、廃寺の際、ある程度、岡公園近くの松林寺に移したと伺う。地図で見ると、その周辺でそれらしいのは松生院。次はそこか。


500体から埋めたのであるから、いくら数百年たっても扱いはもっと鄭重であっていいのではないかと、憤る。戦前、南朝が正統という歴史観が強かったはずだが、これはいったいどういうことなのだろう。

NPOの掲示板には、「宝光寺縁起」の引用がある。つまりどこかにその文書がある。だけど寺の縁起って、相当アレでしょ。

写真は宝光寺趾 




古城趾:山の頂上にあり 篠か城とも最初ケ峯ともいふ 那賀の郡堺なり 山上平なる地両三箇所あり

現在、五輪塔などなく、ただ救いはNPO法人自然回復を試みる会の掲示板がある。

南朝の残党、楠正久ら500数十名が1万以上の軍勢に包囲され、最後は篠竹を割いて矢として応戦したが力尽き、全滅した地である。

頂上の表示では、1360(延文5)、畠山義深が築城し、楠らを攻めたのも彼であると記しているが、時の守護、山名義理が攻城した。





出典:紀伊続風土記:1839(天保10)仁井田好古らが編纂、和歌山県神職取締所が1910(明治43)発行による。巻之17名草郡山東荘黒岩村に寶光寺(揚柳山 寶福院)


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