
国道42号を那智山の方へ曲がってすぐの右側に、「補陀洛山寺」がある。紀伊國名所図絵の熊野編によれば、「白華山と号し天台宗、那智権現の社僧住職して浜の宮の守護にあたる」とあるので、那智山とは一体である。
境内脇に外壁を開いた建物があり、復元された補陀落渡海船が展示されている。一人籠もり込む程度の入母屋式、杉皮葺きの小屋を載せ、四方を鳥居で囲んでいる。正直異様な形であるが、殯(もがり)の鳥居で、発心門、修行門、菩提門、涅槃門を表す、とあり、中へ座ったが最後、あの世行きを明示している。
那智参詣曼荼羅の絵巻をもとに、南紀州新聞社の寺本静夫氏が企画、監修を当寺の住職が行って平成5年に復元したようである。飾った写真からは一度那智湾に浮かべたようであるが。
補陀落とは、サンスクリット語でいう観音浄土のことで、チベットのポタラ宮殿と同じくポタラカからきている。言葉の響きから「極楽」のもとかもしれない。大洋のはてにある約束された地をめざして船出するのだが、当然必死であり、捨身業とされる。小屋の中で飢えるか嵐で転覆するかまでひたすら祈り続ける。
この寺の住職は死期が近づくと渡海することになっていた、とか聞くが、頑健でも自ら志願した者もいただろう。石碑があり、貞観10(868)の慶龍上人以下、享保7(1722)宥照上人まで、25人の渡海者の名と根拠とした文献名が書かれている。同行者も含めれば百人以上が渡海したとの本もある。9世紀1、10世紀1、12世紀3、13世紀1、15世紀3、16世紀10、17世紀3、18世紀1で戦国時代に集中しているようだ。さすがに地球も丸いとか太平洋の向こうの新大陸はスペインが支配しているだのと解ってくれば、この熱狂も醒めたようである。もっとも東北の山中でミイラとなり即身成仏を目指す者はこの時期以降も続くのだが。
名所図絵によれば、天福元年(1233)からの由来を記している。下河邊六郎行秀なる者が出家して
智定坊となっていたが、ある日渡海したと東鑑に書かれている。何でも源頼朝の面前で鹿を射るのに失敗したのを恥じて出家したかいう。江戸後半においても、この寺の住僧は死期に臨めば船に乗せて水葬したとされる。金光坊の逸話は悲惨である。永禄8(1565)、例によって生きながら入水させようとしたところ、彼は激しく厭がったため役人達が無理矢理水中に沈めた事があった、とは名所図絵の記載。他の本では船出したものの恐くなって船板を打ち破って脱出、流れ着いたのが今の金光坊島で、捕らえられまた海へ流されたという。凄惨過ぎたのか、以来存命中の水葬は廃止され入寂後その式を行うこととなったという。金光坊島が那智湾の浜近くに浮かんでいるのを見ると、何だかあわれである。
簡潔、清浄な印象の御堂は「渚の森」という歌によく詠まれた美林に囲まれている。楠の大木が今も見られ、もっと鬱蒼としていたと想像される。
むらしぐれ いくしほ染めて わたつみの 渚の森の 色にいづらむ 衣笠内大臣「続古今集」
那智湾には、多数の小島があり、松が生えているものが多く、紀の松島と呼ばれるが、平維盛が入水する時、太刀を落としたという太刀落島、補陀洛渡海の船はここから帆をあげたという帆立嶋、ここでお別れと引っ張ってきた船が綱を切ったという綱切島(この島はここで維盛入水とも云う)、そして例の金光坊島、と補陀落渡海に因む名の島も多い。
寺の前付近が熊野古道の浜の宮王子である。ここで熊野詣が華やかなりし頃は、連書といって、行幸の際の随行者は官姓名と参詣回数を板書して社殿に打ち付けたという。
国道から那智駅にはいるあたりに「丹敷の湯」が那智交流センターとして設けられ公衆温泉になっている。道中、休憩もできるが、またの機会としたい。