賀名生(あのう)  奈良県五條市


平成20(2008)年、半世紀の間、前を通る国道168号を何度も素通りしてきた私は、ついに賀名生皇居跡に立ち寄った。五條市の国道24号との分岐点から今の時代の国道で7q余り、三年前までは吉野郡西吉野村だったが、大塔村と共に五條市に編入され五條市和田となって、賀名生の地名も行政上は消えた。

歴史民俗資料館が4年ほど前に建てられたようで、それまで十津川まで何度も往復した頃には堀家の茅葺屋根しか見えなかったのが、今や真新しい資料館が遮蔽していた。それにしても大きい。

ここのビデオは日本史ファン必見。あの複雑な展開の南北朝史を15分かそこらではしょってアニメで、しかも登場人物は楠木正儀に北畠親房はじめそう知名度が高くない、戦前教育を受けていない世代ではどこまで理解できるかわからないテーマに挑戦し、しかも一般の人にわからせないといけないという大変な意欲作です。もうちょっと後醍醐天皇の個性と強く描けよとか、楠木正儀を知的なヤサ男にしているのはいいけど何人知ってるんだろうとか、一人で突っ込みながらビデオを見た。受付の人と話すと、東大の歴史の先生が来たとか、吉野に来る人の数百分の1しか賀名生は来ないだろうとかお聞きしたが、マイナーな時代テーマで、やや戦後は避けられてきた部分だから、そりゃしかたないけど、それだけにここまで来たかという感慨はあるものだった。それに人里離れた地だからこそ残った部分もある。

南朝が押し込められた穴生(あのう)は、正平7(1352年)正月、正平一統で帰京が決まって喜んだ後村上天皇が、願いが叶う、に引きかけて、加名生(かなう)と呼び改め、後に畏れ多いとして賀名生に改められたと伝わる地名だが、今は梅林の山里として知られる。紀伊半島を南北に縦断する国道が五條から山中に分け入ったところにある山村だ。


写真は丘の上からの賀名生集落。下の茅葺屋根が堀家の皇居趾?。

後醍醐天皇が延元元(1336)年十二月の吉野潜幸の折り、当地の豪族堀氏をたよって23日から28日に吉野に入られるまで、ここ穴生(阿那宇)に滞在されたのが最初の縁だ。後醍醐天皇は吉野で崩御されたが、南朝は振るわず正平3(1348)年には吉野まで高師直に攻め込まれ、後村上天皇は紀伊山中を経て、9月頃再度この地に入られた。

 この地にも都として輝いたの時期が一度だけあった、観応の擾乱から足利尊氏の便宜的な降伏により、正平6(1351)年暮れにはここまで京の北朝側貴族が任官を求めて通ったという。正平7(1352年)2月には北朝接収のため、東条、住吉を経て八幡まで天皇は進まれ、北畠親房は入京し、三上皇らを連れ去ることに成功したが、反撃にあって5月には八幡は陥落、以降また賀名生に撤退した。

以降も南朝は粘り強く戦う。極端に短縮した経過としては、足利直冬党と同盟した南朝軍は一時的な京占領を、正平8(1353)年6月に実現するが、弱体な兵力と補給がないためすぐに追い落とされる。しかし内部対立の続く幕府も攻勢に出られない。正平9(1354年)4月に北畠親房が死去した南朝側は10月、行宮を河内の金剛寺に移す。幕府の攻勢を受け正平14(1359年)12月観心寺へ移るが翌正平15(1360)年の攻勢を凌いでいるうちに、突如起こった幕府内の内紛、仁木義長の叛乱で攻勢が崩壊した幕府軍を追って9月には住吉神社へ移る。この間賀名生で銀蒿の戦いの混乱もあった。正平16(1361)年12月には最後の京占領を行うが、以降勢力回復はできず、天皇は住吉に逗留され、正平23(1368)年に住吉で後村上天皇は崩御された。とは言え、正平17(1362)年に賀名生で光厳法皇が、後村上天皇と会われた、との記載もあり、南朝勢力圏内を結構移動されていたのかもしれない。

この辺りまでが南朝の力の限界のようで、以降は衰退し、状況もあまりはっきりしなくなってしまう。正平24(1369)年1月に長慶天皇は賀名生に移動、そう楠木正儀は北朝に移る。暫くして天皇は金剛寺に移るとかもあるが、この長慶天皇の即位が確認されたのは20世紀に入った大正時代だというし、以降はもう何処に行宮があったか正確な期間は特定できないようだ。天授5(1379)年から3年ほど五條市の栄山寺に行在所があったとか、賀名生近くの黒渕や十津川に黒木御所(製材していない材=黒木で建てられた、簡素な御殿)もあったようだ。1382年頃以降はまた吉野に行宮があったということだが。楠木正儀もどこでいつ死んだのかも明確ではない。南北合一(1392年)の時は、後亀山天皇一行は吉野から京へ向かっている。

堀家の茅葺門には天誅組の参謀、吉村虎太郎の扁額が掛けられている。土佐勤王党の思想と後世への影響は別にして懸命に戦った生き様が現れている。すべての結果と歴史を受けとめて今と将来を考えよう。


裏山に北畠親房の墓がある。墓がある丘の一段下に戦前各地に建てられたような忠魂碑があるが、碑の前の両側には、何と実弾の大砲の殻が一対建てられている。直径20センチはあるか。碑文を書いたのは在郷軍人会長だった陸軍大将だが、これも時代背景を現す歴史の遺産か。

公家一統の政治を回復すべく天皇独裁を目指した後醍醐天皇、それを思想的に支えるべく神皇正統記を書いた北畠親房、時代が下って、江戸幕府を倒すための思想の裏付けとして尊皇論が使われ、それが近代日本の国粋思想のもとにもなった。
 後醍醐天皇も大覚寺統では中継ぎ役のような立場で適当な時期に譲位して本筋に地天の君の位を譲れと期待されていたらしい。そうはさせじ、自分と自分の血統の支配を永続させようと、強い自我を持つ天皇が持ち出した理屈が北宋流の皇帝独裁制。宋朝では唐末の混乱で貴族が没落、地主階級が育っていたので科挙による官僚で皇帝の専制政治を支えたのだが、血統と氏族保存を最重視する日本人はそんな思想は受け入れず、武家の大半は建武の新政と皇帝専制など拒否したのだった。平安の延喜天暦の治と言っても、血統主義の貴族制であるから、中国の皇帝専制とは全然違うはずなのだが。
 まったく幕府など認めない後醍醐天皇に対し、北畠親房は天皇に忠実な武家の支配はある程度認めるという柔軟な面もあったようだ。東北へ義良親王を奉じて下りまた軍を率いて上京し楠木正成らと一旦は足利尊氏を九州まで追いやったが、すぐさま長子顕家と親王を奥州に下向させてしまう。尊氏の再進出により吉野遷幸後は伊勢を基盤として南朝の軍事、政治の中心人物になった。子の顕家は再度親王と西上したが堺で敗死。自らは再度東国に勢力圏を作るため関東へ下り5年間、神皇正統記を書いて宣撫に努めたが失敗、吉野に舞い戻った。楠木正行にも厳しく督戦し、正平の一統において一度は自ら京都に入り北朝を接収、成功を収めたかに見えたが。謀略と独善の傾向はあっても本当に粘り強く戦った親房は、山中で無念の思いを残して死んだわけだ。おそらく相当気むずかしい人物だっただろう。彼の死後の河内への根拠地の移動は、南朝内で伊勢に根拠地のある北畠氏より河内の楠木正儀が中心となったためと思われる。

黒渕の黒木御所付近からの眺めだが、もうまったくの山中、清流と深い森。南朝とはいったい何だったんだろう。



目次へ