紀南地方への小遠征も今回で最後になろうとしている。今後ずっと来ないというわけではなく、固めて何度も来るのは一段落ということである。そろそろこの石油の無駄遣い、環境負荷の高い行為の意味を、車など使わず歩いて廻れ、人との会話やコミュニケーションがないだろう、という単に探訪記として見た場合に出てきそうな意見に、答えを用意しておく所だろう。実は昨年春頃から、和歌山県下のすべての標準地(地価公示)、基準地(地価調査)の踏査を行い写真集を作ろうという計画を進めてきた。これまでも近傍に仕事があった時や、公示、調査で担当した際に少しづつ撮り溜めはしてきたつもりである。これが中途半端にそろってきた時に、空白を埋めたいという欲求が出てくるのは当然だったかもしれない。
  鑑定士魂というか、自分のフィールドをより知りたいとの思いは止めることはできなかった。またかなり担当したことのない地域も多く、かえって10数年前の方がより広範囲に数年おきに担当を替えてくれたものだ。それがあまり担当を動かさなくなった時、自分が担当したことのない県内の地域をもっと知っておきたいという気持ちと、全部一応廻ったら自分の価格バランスの感覚にどういう影響、変化がでるのか、それもぜひ知りたかったところなのだ。
  もちろん不動産鑑定士は国内全域で鑑定業務を遂行可能であり、昨年も初めて東北地方にまで足を踏み入れ鑑定してきた。地元の協会や同業者で事例資料を買い、インタビューを行って現地調査をする。これは実際は日程と納期に縛られ、まったくのんびりなどできない旅なのだが、探検みたいな気分になれ、いつでもやりたいし、いつまでもやりたい仕事ではあるのだ。とは言え、鑑定評価に必要な資料はだいだいが県単位で収集、保管されており、各鑑定士は県単位を主な活動の基盤にしていることは全国共通であり、まず自分の地元県での活動がベースになるのだ。
 さらに写真を撮って周囲をうろつくだけでその地域がわかったと言えるわけでもなく、その地域を担当した鑑定士の仕事をどうこう言うためにやるわけではない。ただ百聞は一見にしかず、またその土地土地の歴史、文化をまだまだ学んでいかねばならないのは、よく心得ているつもりだ。
 鑑定士の向上心、向学心というものにいくつかの方向があるとして、ひとつはこうしたフィールド的な地域を知る努力であろうと思われる。これは多分に視点は過去方向で、必ずしも経済的領域に限られない思索を含み、手法的には取引事例比較法重視にならざるを得ない。故に近年批判もされ軽視される傾向もある。一方では、所在する場には必ずしも縛られない、数値分析から価格を追求する技術の習得、研究があり、これは投資適格性のある領域にのみ適合した考え方で、収益不動産には文句なくあてはまる。透明性が高く、説明責任に耐えうると。視点は未来的で、DCF法に代表される。不動産の証券化も進んで、都市部のインデックス整備も進んでいる。理論性の高いことは結構であるが、地方ではあまり関係がないように思われる。純収益と還元利回りの分析、予測ができればよく、ビルがどこにあるかはあまり関係ないという思考は、一部のファンドに組み込まれうる不動産にしかあてはまらない。収益性が低い、あるいは皆無の土地のうえでも人間は生きて、採算の合わない経済活動も続けている。それに課税もしているわけで、収益方式の適用のしようがない地域の方が実は大部分だと思うのである。
  現状、公的評価においても収益還元法は宅地においては重視されるようにはなってきている。精緻化も進んでいるが、体裁のためではないかと感じることがある。バブル崩壊後の地価下落が長引いたのは日本に不動産の専門家がいないためだとか、日本の鑑定評価の方式が遅れていたため、バブルを発生させ、崩壊後の混乱を長引かせたとの批判があった。英米流の評価手法がDCF法を中心に導入されたが、手法の問題というより、法的規制の不備と不公正な市場ルール、情報の非公開、非対称性が原因だったと私は考えている。つまり統治能力の欠陥である。収益性がない土地は固定資産税を免除してくれるというのであればDCF法だけで土地価格など決めてくれてもいいが、そうはいかないのだ。
 この旅を終えたら次は地元では使えないDCF法やその発展手法を当分勉強してみるつもりだ。今でも簡便なあるいは通常のパターンのDCF法ならば使った評価書を書けなくもないし、実際使ったこともある。しかしどうも収益の予測も各種利回りの決定も評価者の恣意性が入る余地があり、結局難しそうな数字で煙に巻いているか、体裁をつけているだけで、昔とやっていることはそう変わるものでもなさそうに思われる。手法の問題ではなく、監督、規制のあり方が問題なのだ。Jリート関係の鑑定ではるかな都会の方から聞こえてくる評判はこの考えに一致している。通達みたいなものが出てきているのはその証拠である。

 そんな思いを抱き、毎度のように山間ルートで南下し、国道168号に出て熊野川沿いを下る。宮井大橋で国道169号方向へ渡り瀞峡へ向いて支流を上っていく。この合流点のすぐ下の志古から観光ジェット船が発着しており、けっこう高速で川を上っていくのが見えた。
 九重あたりは道路工事で、そのうちもっといい道になるはずだ。その先でいよいよ飛び地地帯に入る。奈良県十津川村と新宮市熊野川町の飛び地部分は、国道としては最も整備の遅れた箇所だろう。玉置山への登り口までくると、奥瀞道路として少しは道が良くなる。瀞八丁というのはこの南あたりで、ジェット船はそこまでしか行けない。ここからは瀞峡、北山渓と、両岸は絶壁、それも人が歩いても行けないような壁が続いている。小森ダムの下に見渡せる場所があるが、筏がそこをいくのだろうか。地図から見てたぶん緩そうな部分、オトノリから小松間で観光筏下りが平成13年から開航され、大ブレークで予約もなかなか取れないほどなのは本当にすばらしい。この北山村は全国唯一の飛び地の村というのを売り物にしている。販売者の表記が村長というジャバラドリンクは微妙に青臭くも軽快な味がして、100%オリジナルでどこにもない味を出している。じゃばらはもとは雑種の柑橘類で、ユズよりも果汁が豊富で、しばらくは特許でこの地域でしか栽培できない幻の果実である。「邪気をはらう」から命名されたらしいが、花粉症、特に鼻炎に効くとの評判で品不足が続いている。人口600人台の山間飛び地の村で、筏とジャバラという名物もある、頑張っている村なのだ。
 七色で私の公的評価地点見回りは一応終わった。美しい地名の場所で終われたことをうれしく思う。それにしても北山村の東端の集落と、田辺市本宮の北端の奈良県境の集落が共に七色なのはなぜだろう。日の当たり方で山か川かの色がすごく変わるからなのか、命名のセンスがいい先人がいたのだろう。

 ここからは山中、三重県南端部を横切り、丸山の千枚田を見に立ち寄った。オーナー募集、守る会もあって、おそらく日本最大の棚田であろう。高低差約100mの範囲にかつては7町余り2400枚の田が広がっていたようである。今で1300枚くらいのようで復元が進められている。何せ周囲の山並みが本当に人工物が見えない。協力金方式で1口1万円で白米1升がもらえる。すばらしいのは認めるし努力には敬意を払うが、こうでもしないと維持できない現実をどう考えるのか。
  撮りこぼした地点を拾いに大辺路(海岸沿いに串本、田辺と廻るルート)を通って帰る。これで一段落だが、今後はきちんと地元の人と話して、産業や文化、歴史をより掘り下げて理解するように努めたい。また山や渓谷といった部分は全然行けていないルート、流域がわんさとある。それほど紀伊半島は奥深いのだ。
  


   ←丸山の千枚田(和歌山県内ではない。三重県熊野市)
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