地元戦跡を訪ねる2  井松原の合戦(1577)

 地元豪族の共同支配体制を崩壊させた戦いでもあったと言える、現在の海南駅周辺にあたる、当時は井引の松原(井松原)一帯で行われた激しい戦いをテーマに、日頃散歩がてら歩いてきたのでご紹介しよう。

 郷土史家を目指すわけでもないので、文章はたいていサイトか石碑、教育委員会の資料とかをもとに集めているが、生活圏内に住む不動産鑑定士が書いているから、地勢とかは配慮している。

お地蔵様の隣にこの戦いの石碑が建つのは、海南駅の東口から住宅街へ少し入ったあたりである。

 この海南あたりは室町時代になる頃には、土豪の共同統治のような微妙な地域だったらしい。大野城が紀北の政治的中心で、現存する春日神社を奈良から勧請する時に付き従ったとされる大野十番頭と呼ばれた豪族が、交替で神職を勤め、土地の売買は全員のサインがないと成立しないというか認められないという体制だったらしい。中央権力からは一歩離れた独立的な雰囲気で今の気風の原型のようなものが感じられる。十番頭の末裔である尾崎家や春日神社、井口家由緒書等のサイト資料から拾うと、稲井因幡守(鳥居村北)、三上美作守(三上山)、田島丹後守(鳥居村中)、坂本讃岐守(鳥居村西)、石倉石見守(名方村)、藤田三河守(幡川村)、中山駿河守(東中村大野中)、宇野辺和泉守(西中村)、尾崎尾張守(日方)、井口壱岐守(井田)という。藤田豊後守、中山出羽守との資料もある。それにしても、在所はだいたいわかるし、姓は聞いたことのあるような名が多いのは、さすがは地元である。大名みたいに守を小豪族が名乗るのかと感じたが、元享二年(1322)大塔宮護良親王が熊野参詣を名目に、倒幕運動に来紀した折、十番頭に受領名を賜ったようである。南北朝の間はどう立ち回ったのかはわからないが、藤白山上の「大野城」から紀伊國の守護が紀州を支配し、春日神社のあたりを支城「春日山」城を置き、政務を執ったというが、現在の和歌山市の方はどうだったのだろう。
  雑賀、根来、太田、湯浅と豪族集団の割拠する時代は、要は中央権力の統制が地方に及ばなかった反映である。ではあるが、甲斐の武田や尾張の織田のように強力な統一者が出現しなかったことがこの地方の特徴である。我が強くまとまらない気風の反映とする説を津本陽あたりは書いている。たしかに現代でもそういう傾向はあって一人の親方を押し立ててそれにぶら下がるよりは、小グループや個々がたがいの足を引っ張りあうのだ。だいたい人国記で紀州に関していいように書いたものは見あたらないが、それはそれで腹を立てる年でも私もなくなってしまった。
  たしかにその要素はあるが、まず畿内に近く、物なりが良いので個々の土豪が豊かで独立的行動の余裕があったことが挙げられる。これは近畿のさらに先進地域が同じ傾向だったことでわかるが、残念ながら堺、平野等の独立自治都市までは産み出す生産力はなかったようだ。津本氏によれば雑賀衆などは傭兵により膨大な蓄積があり、江戸時代の半ばまでは遊んで暮らせたと書いている。東洋のスイスみたいな所でもあるのだ。また根来、粉河、高野山と中世の強力な宗教団体が複数存在しており、その所領は広大で信徒は深く浸透しており、世俗権力がこれを上回って成長、統一はできなかったということもあるだろう。そして地理的背景であるが、地図で見れば小さい県だが入ると急峻な山とリアス式海岸で移動が困難で各地域が小さく独自性を保ち、これも統一を阻んだのである。これは信州みたいなものだ。そして今でもこれが、どのビジネスをするにも、攻めにくく、行っても儲からないという形で続いている。高速道路の建設が進むが、これでどの程度変わるのか、ストロー効果でさらにつまらなくするのか、ここでは論じないこととしよう。
 さてこういう状況が、織田・豊臣の天下統一の動きの中で潰されてゆくのが16世紀後半の流れである。しかし紀州が近畿で最後まで統一に抵抗した地域だったのはたしかなのだ。 
 天正5年3月に織田信長は、紀州を攻撃。雑賀衆は雑賀川を挟んで膠着状態に持ち込み一旦和議が成立、信長は引き上げた。この時雑賀衆は、十ヶ郷、雑賀、宮郷、中郷、南郷等諸集団から成っていたが、このうち三縅衆(南郷の一部か)らが信長に協力したようで、これに報復するため雑賀が、南郷に攻め込んだというのが開戦の背景である。雑賀五搦(雑賀荘、十ケ郷、中郷、南郷、宮郷)の内中郷、南郷、宮郷、と根来衆が信長に味方と尾崎氏資料にはある。大野十番頭は親信長派と雑賀側に分かれ、親信長派は海南市北側の日方に砦を築き、雑賀側は市南部の名高に布陣、雑賀衆始め紀州他地域の豪族、一向宗徒が加わり、相当数の戦力が今の海南駅付近で激突した。

当時は、海南駅の西方は干潟で、まさに今の海南市の中心地「日方」の地名由来であるが、駅の周辺は平坦な松原であったとされる。イメージしたい者は有田や広川、美浜の方の松原を見てくれば想像しやすいと思われる。今は松原ではないが、野上電鉄の廃線跡周辺にわずかにその名残を見ることができる。
 この平地を東から西へ、北方を日方川、南方を山田川が流れ、約500mから600mしか離れていない2本の川と西側の海で囲まれた松原が戦場となった。おそらく東西幅も500m程度の濃密な空間で、8月16日、まる一日の戦闘で両軍合わせ200名の戦死者を出したというから、参加者の規模も多かったであろうが、逃げ場のない地形も原因だったに違いない。干潟沿いと松原以東の側面をこの時ばかりは兵力が多かった雑賀側が押し取り、日方川沿いに包み込んだと想像するのだが、いかがなものだろう。有楽園のパチンコ屋周辺が最激戦地だったとも聞くが、海南駅の北方250m地点で今はまるで市街地であるが、たしかに日方川の方に近い。日方側が大敗、敗走したというから、狭い川ではあるが、日方川岸で討ち取られる者が多かったであろう。北側の山から南に延びた丘のうえに当時の永正寺はあった(現在は公園地山として広場になっている)が、これもこの時焼けている。日方方の砦はこの背後の山上であったと推定されるが、一番奥の城ケ峰でも日方川からは直線で約800mしかない。後半は城攻めになっていたかと思われる。今の寺はもとの位置から少し北方の西裾に降りていて、日方方の戦死した大将、田嶋甚五郎長吉の墓石がある。二百五十回忌にご子孫の建てた碑に日方方の大将が八人で、落城討死とあるから、岡のうえの砦ででのことだろう。十番頭の多くは討死しとあるが、誰がどうというまとまった資料はない。それにしてもなぜ雑賀勢が南から、日方勢が北側から布陣したのだろうか。北西方向が雑賀の本拠地域であるから、かなり包囲されたような配置が想像される。北東方に根来があるから、織田の援軍、佐久間信盛を迎えようとしていたのだろうが、間に合わなかったようだ。

←日方川    ←山田川


←公園地山の草原(日方側砦の推定地、当初の永正寺所在地)

 一方、名高方戦死者は、名高の専念寺に葬られたが、これは山田川からほど近い平場である。
  古来陸戦で参加者の1割も死者がでることはないとされるから最低2000人ほどは参加した合戦であったはずである。その割には、参加豪族の戦力と、戦闘の経過、被害等をまとめられたものは見あたらなかったのは残念である。時に補足していくべき対象だと考えている。
 結局、こうして地方豪族は弱体化して、天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めで紀州は制圧されてしまったのであった。




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