林業、山をどうするか


1.客観状況をまず共有する

  滋賀県が全国で初めて特定調停を大阪地裁に申請したので、全国の森林整備公社の経営悪化が注目されることとなった。

  しかし、公社に限らず、森林組合から民間の林業経営体に至るまで、産業として見た林業は、はっきり言って既に破綻している。つまり補助金なしには維持できない。債務の返済の目途などない経営体が多い、いや大部分だろう。

  ただし、林業が経営的に成り立たなくとも、山はそこにあり、木は成長し続けている。今は伐採しても採算が合わない山も、為替や市場価格、そして国内の素材加工、流通市場が整備されれば、採算に合ってくるかもしれない。また木材の生産だけを考えるのではなく、治山治水という目で見れば他の産業に属する者でも荒れるにまかせるわけにはいかない。環境という面からも二酸化炭素固定化に重要な貢献をしている山林に存在意義がないわけではない。経済的採算に合わないとは、素材生産についてだけである。

  

2.選択をどうするのか

  公社の素材生産を目的とした事業が行きづまりだとわかった今、自治体へしわ寄せが懸念されている。で、公社や自治体は一部債務免除なら、森林組合はどうするのか、また林業を営む民間の個人、法人はどうするつもりなのか。


  たしかに木材は自由化が早く価格下落は猛烈で都心不動産のように数分の1になったどころか、まさに価値的には蒸発してしまった。評価的に言えば投資価値なし、ゼロもしくは負価の山林が、おそらくこれも大部分であろう。そんな山に保安林を除いてわずかとは言え固定資産税をかけ、機械的な評価を前提に相続税まで徴収している。運良く林業以外の用途に転換できれば一挙に数百倍の市場価値が顕現するからわけがわからないが、これはまず例外中の例外でしかない。

  だからと言って、債務免除?では他の産業従事者が納得するのか。モラルハザードを招かないのか。というわけで、現状は先送りに先送りを重ねているのである。難しいが、一般にいう事業期間60年というのは材価からして無理で、最低80年生というのが実際のところであろう。作業道の整備や機械化の推進、何より施業の広域での一体化が不可欠で、これへの協力を条件に80年生程度まで返済延長、利払い後回し程度の救済策は個人で受けても社会的公平は保たれると思うがいかがだろう。 


3.もうひとつわからないこと

  林業が採算に合わないから手入れが遅れる。手入れした山としない山ではいざ伐るとなると価値は数倍違ってくる。林業として見ても手入れはした方がいい。また手入れしないと不健康な山となって森の保水力が低下して、地滑りや水害のもとになる。補助金も付いているから手入れは積極的にやろう。

  とは通常言われてきたことだが、別の考えもある。そもそも戦後、木の価格が高いときに営利目的で本来植林すべきでない所まで無理矢理に針葉樹を植えてしまったのが問題だ。山を荒らして林道をつけ、それでも採算は合わず、花粉症の元を作っているだけではないか。一部の環境運動家のように手入れの悪い山の針葉樹を伐って広葉樹林に戻すのはエネルギーの無駄遣いか、どこかの予算確保の理屈に使われるから賛成しないが、いっそ崩壊防止以外の作業をすべて中止すれば、数百年立てば自然の生態系の遷移で針葉樹林になる所はそうなるし、広葉樹林に戻るところは戻るのではないだろうか。本当に採算の合うところだけ伐採、それも営利間伐で新植なしで対応していけばいいだろう。

  こっちの考えの方が妙に納得するのだが、経営体は木を伐らないと維持できない。もし国有林、公社、森林組合も組織替えして大幅縮小し、治山治水目的対応にしてしまうと、林業従事者の大部分を他産業へ移動させなければならない。経済学的にはそれで国民経済の生産性は上昇するだろうが、過疎地域は集団移住を迫られるだろう。ゆえにこうした考えに賛成もできないのだ。

  極端な意見では、野生生物の生息地を奪ってまで山で建築材料としての木を育てる行為自体を環境破壊だという者もいる。これは論外で、適切なサイクルで木に固定された二酸化炭素を建築に使う方が環境対策にはよい。外国の木よりも国内の木を使う方が輸送にエネルギーは少ないはずだ。鉄骨造が木造より環境によい根拠などないのだ。とは言え田畑の延長の感覚で林道から遠く離れた尾根際まで植えてしまった戦後の植林地の多くは、撫育をすべて伐期まで続けるべきだとは私は思わない。後は採算の乗る所だけ伐ればよいのだ。問題は誰が伐るのかで、生計を素材生産で維持する者がいなくては困るのである。したがって大幅に林業を縮小しながらも労働力、地域社会は維持しなくてはならない。ではどの程度なのか。手入れの悪い山はどうするのがよいのだろうか。

4.新自由主義の見地から

 最近、アラン=グリーンスパンの回想録を読んだが、資本主義の本流からは、競争による生産性の向上が方策であり、保護主義的な対策ではかえって投資も呼び込めず、結果的に生活水準はあがらないという。日本はまったくこれと違い補助金で保護してきた。結果は今のところ、前FRB議長の言うとおりだったわけだ。どれだけの規模とか施業計画は関係がない、市場がこれを決めるのだ。とすれば、現実から考えると、補助金のレベルが、将来の林業部門の規模を決定することになる。間接的には既往債務の処理方針も同じである。
 急激すぎても投資する受け皿がないためこの方向からの改革も進まないと思われる。第一、林業関係者は誰も支持しないだろう。彼らのいうポピュリズムが深く捕らえている。とは言え相手は自然相手で、歴史的な価値観も根強い分野である。経済合理主義で割り切れる世界でもない。朝起きたら、1日分の金利が発生するという、近代資本主義のルールが貫徹する世界だとも思われないのである。状況が変わればルールも変わる、という近代以前の良識や自然の理がむしろふさわしいような世界で、これをモラルハザードだと片付けて、片っ端から競売にかけて二束三文で国土保全上も価値のある山をたたき売っていいのかという問題も出てくるのだ。
 旧債務者には、借りたものは返すという厳格な契約理念を強制しながら、例えば100の返済を強いるとして、新たな投資家には採算の合う、極端な低価での債権の買い取りを認め、例えば3として、買い取らせるならば、今の所有者に97%の債務免除を認めることと、どちらがどの程度モラルハザードを引き起こす程度がましだと言えるのだろう。土地投機で値上がり見込がはずれた場合と根本的に違うのは、市街地の宅地は価格を下げれば、それなりにキャッシュフローを前提とした買い手も見つかる可能性があるが、山林の場合は、まずキャッシュフローが見込めず、合理的な素材生産の採算見込ではなく、一攫千金的に廃棄物処理場等に用途転換を図るものくらいしか買わないということだ。これも価格しだいだというなら、国の安全保障に関わる問題にもなりかねないのである。(国土70%が経済的に無価値なら、ただ同然で国土の70%を買い占めることができる)
これがモラルハザードでなくてなんだろう。

5.解決策は特になく市場は厳しい

 グリーンスパン博士は競争的資本主義への批判は「悲痛な叫び」だが、合理的な解決策はなく、改革を実施しても、助けようとした者の生活水準は逆に低下すると指摘される。つまり補助金で延命しても林業関係者は豊かにならないという考えであろう。国土の地勢的制約から生産性の向上は難しいが、放置していて解決にはなるまい。強制的な施業の集団化ではなく、価格が自然に誘導して、さらなる山元価格の低下と、充分安くなった山への新たな投資家の出現を待つということになるが、そんな流れを地域山村が支持するとも思えない。ただ、結果はそうなるしかないのだというように、氏の「波乱の時代」を読んだのだが、個々の経済主体が自らの生き残りのために合理化をする動きと、すぐにはなくならない統制的行政がどう動いていくのか、世界の資源状況、環境対策等の影響がどう作用するのか、相まって決まっていくものと思われる。一経営体としては、自らの利益にのっとって最善を尽くすだけである。


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