
元和元年(1615)4月29日、大阪夏の陣の大規模な前哨戦がここ樫井川周辺で行われた。
一度立ち寄りたいと思っていた地で碑文を読みながら河原を眺める。
大阪方は大野主馬を主将とし二万余の兵力を南下させたが、徳川方の紀州勢、和歌山城主浅野長晟勢五千と泉州で衝突した。前日、浅野勢先陣が佐野市場(泉佐野市市場か)に到着。大阪方が岸和田を超えてきたため、劣勢の浅野側は軍議の結果、安松(樫井の約1q北の集落)・樫井(泉佐野市南端部で泉南市に隣接)に後退し迎撃の体制を取った。古戦場石碑によれば、松林と沼田で大軍の通過が困難な地勢を選んだとある。ここで大阪方先手の岡部大学と塙団右衛門が先陣争いのため小規模兵力で敵陣に仕掛けてしまった。29日未明、浅野側の亀田大隅は池の畔に伏せた鉄砲隊を用いながら安松を焼き払い樫井まで後退、樫井集落内から河原一帯で激戦となった。浅野勢の団結による野戦能力が立ち勝り、まず岡部が敗走、塙が樫井で孤軍となり、ついに矢を股に受け馬を降りているところを討ち取られた。この敗戦後わずか八日目の五月七日大阪城が陥落、豊臣氏は滅亡した。
大阪平野南部「泉州」は、今は住宅地が玉葱畑の間に広がり、水なすとシャコも有名な地域です。タオルやメリヤス、紡績といった産業は衰退してベッドタウン化してしまいましたが、岸和田のだんじりのイメージ通り威勢のいい兄ちゃんが多い、親しみの持てる土地柄です。地勢は南の和泉山脈から北西向きに流れる小規模な河川に低い丘陵がえぐられ微妙な起伏が川沿いに伸びており、南へ行くほど平坦地は狭まり、泉佐野以南はその傾向を増します。気候からもため池が各所に今も見られ、当時は今より松林も広く浜の方まで伸びていたとあり、平坦部は狭かったと想像されます。地形をうまく利用したうえ統制の取れた浅野勢が四倍の兵力の大阪勢に大勝したということですが、大阪方の一部が浅野方に打破され、主力が戦闘に加われないまま士気阻喪して敗走したわけです。情勢からしても士気は浅野方が立ち勝っていたのでしょう。一見、負ければ後がない大阪勢の方が必死で、20万の兵力が全国から攻め寄せてくる徳川側の方が衆を頼んで油断しそうですが、ここの一方面では逆だったということです。浪人衆をかき集めたため大阪勢はまとまりがなかったといいますが、装備、練度等でも徳川側が圧倒的でもあったのでしょう。時の勢いは動かしがたかったのだと思います。
樫井集落内を東西に紀州街道が貫いていますが、戦死した塙団右衛門の五輪塔と淡輪六郎兵衛の宝篋印塔が道脇に祀られています。塙団右衛門は尾張の人で加藤嘉明に仕え朝鮮の役で軍功があったとあります。関ヶ原の戦い後浪人して僧となり鉄牛と称していましたが、大阪夏の陣で参陣したのです。淡輪六郎兵衛は地名にもある大阪南部の土豪で姉が関白秀次の側室小督の局だそうです。その子お菊も夫とともに戦い伝説に名を留めています。なかなかわからないことも多く、お菊寺とかお菊松とか泉南には名所として残されています。溜池脇に車を停め集落へは徒歩でなければ入れません。南北朝時代からの有力国人だった奥家住宅の長い塀が街道沿いに伸びています。ここの当主はその時の戦いを自分の庭先で迎えたのですが、どのようにしてその時代を生き抜いたのか、それは門前の解説板には書かれていません。