新宮城は丹鶴城、別名沖見城と呼ばれ、関ヶ原合戦(1600)の後和歌山城主となった浅野幸長の家臣である浅野忠吉が新宮に入り、慶長6年(1601)に築城を開始、元和元年(1615)の一国一城令で一旦廃城となるが、同4年特に許され再築城になった。その翌5年(1619)、徳川頼宣が紀州に入り付家老の水野重仲が3万5千石で新宮に移り、寛永10年(1633)完成され、10代270年に及ぶ熊野支配の拠点となった。熊野灘から望見できる美しい姿であったという。平安時代の九代熊野別当が別邸をつくりその娘丹鶴姫によってその東端付近に東仙寺が開山されたのが始めらしい。源平の時代には源新宮十郎行家が山城を築いたとも言われる。

  城は新宮駅からほぼ北方向に直線で600mばかりの距離にあるので、どうせ2時間に1本しかない和歌山まで行く特急を待つまでの時間に楽に歩いて往復できる。あと30年もすれば無理かもしれないが、普通の体力で充分のスケジュールである。熊野川岸に臨む孤立した丘にあり、建物は残されていないのが残念だが、公園として整備されている。面白いのは
紀勢本線が城山の真下をくりぬいて走っている。トンネルを出れば突然橋の上という感じだ。
 紀北へは、午後6時前の電車に乗れなければその日には帰れないか、田辺に泊まる羽目となる。和歌山県は地図で見ると小さな県だが、一旦入ってしまうと時間距離が長く山は急峻で、峠を越え地域が異なると方言もやや違ってくる。特に熊野の方は東海地方に近いせいか、アクセントは標準語の位置にある。城までは、一旦寂れた商店街を通って西から廻るか、静かな住宅街を通って東から廻るか大差ないのだが、時間しだいでいろいろ散策対象のある町である。
 中心市街地は城の南西方にこじんまりまとまった感じだが、昨今の流れで人口はスプロール化している。熊野川の北側は三重県南牟呂郡紀宝町であるが経済的には一体化しているようである。ただし、屏風のように切り立つ神倉山、ゴトビキ岩(天の磐盾)のある峰の向うは、熊野の山々が広がり、川丈街道と呼ばれる熊野川沿いの国道168号沿線にしても崖下を無理に通している感じで山村といった趣である。
 新宮勝浦道路が建設中だが、三輪崎には比較的大きなSCが開業、やはり南郊のジャスコと競争して商業中心は南に引きずられている感じである。おかげで駅前商店街「仲之町」やこれに接したオークワの「ペアシティ」の苦境が伝えられている。
 
 新宮で観光といえば、熊野三山の速玉大社が当然中心となり、駅からは北西方向に広い道を歩いて行けばたどり着ける。城の西郊、船町に佐藤春夫の生誕地の碑があるが、地酒「太平洋」の尾崎さんの蔵の向かい付近である。
 ただ、こちらを見るならば、駅北口の踏切を西に渡って100mほどの春日地区にある大逆事件の碑や中上健二の生誕地文学碑付近も歩いておくといいだろう。両方を見ないと熊野は理解できないと思うのである。浮島の森や、徐福公園まで見るとなれば、1日新宮観光となってしまうのだが。

知人の華僑2世は徐福の墓は本物だと主張している。何でも福建あたりで海に流した物が新宮あたりに漂着するのは事実かつ自然だそうで、島崎藤村の言うように南洋から椰子の実ばかりが流れてくるわけではない。わざわざ神武天皇がなぜ熊野周りをしたかしたことにされたのか、古事記、日本書記も出来、大仏開眼後、孝謙天皇がなぜ日本第一霊験所の勅額を熊野に出したのか、つまり神仏習合が熊野で盛んとなりその熊野信仰を全国に広めらることができたのか、つくづく熊野とは不思議な所だと思ってしまうのである。

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